最高裁判所大法廷 昭和46年(あ)1590号 判決 1974年5月29日
主文
本件各上告を棄却する。
理由
検察官の上告趣意について。
所論は、原判決は、被告人が同一の日時場所において、無免許で、かつ、酒に酔い正常な運転ができないおそれのある状態で普通乗用自動車を運転した所為につき、右無免許運転の罪と酒酔い運転の罪とは観念的競合の関係にあると判示しているが、この判断は所論引用の判例に違反するというのである。
所論引用の判例(最高裁昭和四二年(あ)第二〇七号同年六月九日第二小法廷判決・裁判集刑事一六三号五一一頁)は、同一の日時場所において、無免許で、かつ、酒に酔い正常な運転ができないおそれのある状態で普通乗用自動車を運転中、時速約七〇キロメートルないし八〇キロメートルの高速度で前方左右の注視を怠って進行を続けた過失により人身事故を惹き起した事案につき、無免許運転、酒酔い運転、業務上過失致死の各罪が併合罪の関係にあるとした原判断は正当であると判示したものであるから、所論のとおり、原判決は右判例と相反する判断をしたものといわなければならない。
しかしながら、刑法五四条一項前段の規定は、一個の行為が同時に数個の犯罪構成要件に該当して数個の犯罪が競合する場合において、これを処断上の一罪として刑を科する趣旨のものであるところ、右規定にいう一個の行為とは、法的評価をはなれ構成要件的観点を捨象した自然的観察のもとで、行為者の動態が社会的見解上一個のものとの評価をうける場合をいうと解すべきである。
これを本件についてみると、被告人が本件自動車を運転するに際し、無免許で、かつ、酒に酔った状態であったことは、いずれも車両運転者の属性にすぎないから、被告人がこのように無免許で、かつ、酒に酔った状態で自動車を運転したことは、右の自然的観察のもとにおける社会的見解上明らかに一個の車両運転行為であって、それが道路交通法一一八条一項一号、六四条及び同法一一七条の二第一号、六五条一項の各罪に同時に該当するものであるから、右両罪は刑法五四条一項前段の観念的競合の関係にあると解するのが相当であり、原判決のこの点に関する結論は正当というべきである。以上の理由により、当裁判所はこれに反する限度において所論引用の最高裁判所の判例を変更して、原判決の判断を維持するのを相当と認めるので、結局、判例違反の論旨は原判決破棄の理由とはなりえないものである。
弁護人小林健治、同妹尾修一朗連名の上告趣意第一点について。
所論は、本件事故当時の被告人の酩酊状態からすれば、被告人に対してはハンドルの的確な操作、減速徐行等の措置を期待しえない状況にあったものであるから、本件事故の原因は、被告人が自動車の運転を中止しないであえて運転を継続した点に求められるべきであるのに、原判決が被告人においてハンドルの的確な操作、減速徐行等の注意義務を怠った点に過失があるとしたのは、事実を誤認し、その結果所論引用の判例(福岡高裁昭和四一年九月二日判決・高刑集一九巻五号五八三頁、仙台高裁昭和四二年五月一一日判決・高刑集二〇巻四号三九一頁、大阪高裁昭和四三年一一月三〇日判決・高刑集二一巻五号六三〇頁)と異なる判断をしたものであるというのである。
しかしながら、所論は、本件事故の原因は、被告人が自動車の運転を中止しないであえて運転を継続した点に求められるべきであるとの原判決の認定しない事実を前提として判例違反をいうものであるから、適法な上告理由にあたらない。
同第二点及び同第三点について。
所論は、単なる法令違反、量刑不当の主張であって、刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。
よって、刑訴法四一〇条二項、四一四条、三九六条により、主文のとおり判決する。
この判決は、検察官の上告趣意について、裁判官岸盛一、同天野武一、同江里口清雄の各補足意見、裁判官岡原昌男の意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。
裁判官岸盛一の補足意見は、次のとおりである。
私は、最高裁昭和四七年(あ)第一八九六号昭和四九年五月二九日大法廷判決において補足意見を述べたが、観念的競合についての私の考え方は、右補足意見で述べたところと趣旨において同一であるから、ここにこれを引用するほか、裁判官天野武一の補足意見に同調する。
裁判官天野武一の補足意見は、次のとおりである。
私は、岸裁判官の補足意見に同調し、さらに、検察官の上告趣意に関連して若干の所見を付言することとしたい。
一 刑法五四条一項前段にいう一個の行為であるかどうかを定めるには、まず法的評価をはなれ構成要件的観点を捨象した自然的観察のもとに行為者の動態をおき、それが社会的見解上一個と評価できるかどうかによることにしようというのが岡原裁判官を除く他の裁判官一致の意見であるが、本件においては「法的評価をはなれ構成要件的観点を捨象した自然的観察のもとで、」「行為者の動態が社会的見解上一個のものとの評価をうける場合」のもちうる客観的基準としての明確度が当然問題となりうると思われる。私は、この場合に、例えば、「運転」ということ自体がすでに道路交通法上の法律用語をなしているからといって、本件においてはじめにとらえる行為者の動態も同法上の運転であるとする法的評価ないし法解釈を施す以前の、いわば裸の事実そのものでなければならないとするほどに厳密な思考による説き方を必ずしも欲するわけではないが、厳格に追及すればすべてそこまで詰めての認識たるべきことを求めることにもなろうし、あるいは、所論引用の「同一の日時場所」の字義をもって日時の同時刻性と場所の同一地点性がそれぞれ全く合致することでなければならないとする理解の仕方もありうるであろう。しかし、思うに、本判決にいう「社会的見解上一個のもの」とは、このように狭い視野に跼蹐して機械的な厳密さのうえにおいてのみ得られた一個性を意味する用語ではない。これを端的に言いかえれば、ただ犯罪構成要件の観点から行為の単複を論ずるよりさきに、まず法的に無色な客観的事実に対する自然な見方ないしは社会的見解に基づいてその一個性の有無を観察評価するところに、一義的な意味をおけば足りることを意味するものと理解すればよいことなのである。
二 次に、無免許運転者の行為の一個性をいう場合に、道路交通法における自動車運転の規制が運転免許制度という枠組みの上に構築されている現実との調整をどうするか、が問題たりうる。例えば、運転免許を有していても禁止される酒酔い運転を無免許の身でありながらあわせて犯した場合、その運転行為が一個であるゆえをもって処断上の一罪とされるにおいては、刑の上限が有免許者の酒酔い運転の場合と全く異らないことになるが、それでよいのか、との反論が成り立つ。すなわち、その違反者が基本的にいかなる形態においても運転することを許されない無免許者であるのに、その者がさらに酒酔い運転を犯したのであるから併合罪としての処断を認めて然るべきではないか、とする見解のごときがそれである。これにはまた、運転免許をうけている者はその違反行為によって免許の取消し、停止等の行政処分があるのに、無免許の違反者にはこのこともありえないことからくる不均衡感が伴うことであろう(道路交通法第六章第六節参照)。しかしながら、運転違反に各種の形態があるなかで、運転行為者が無免許であることは、その者の属性として特別に重要視すべき違法要素であるにしても、無免許の場合に限って、これを前述の法的評価捨象の意味に特殊な除外例を設けることは、結局、右の意味を全く失わせることに帰するのであって、とうてい両立させうることではなく、要すれば、この点に関してなんらかの立法をまつほかはないのであろうと、私は考えたい。
裁判官江里口清雄の補足意見は、次のとおりである。
私は、裁判官岸盛一、同天野武一の各補足意見に同調する。
裁判官岡原昌男の意見は、次のとおりである。
観念的競合に関する多数意見の基本的な考え方には異論があるが、本件は私のような見解でも結論は同じになるので、多数意見の結論に同調する。なお、私の見解の詳細については、最高裁昭和四七年(あ)第一八九六号昭和四九年五月二九日大法廷判決における反対意見のとおりである。
(裁判長裁判官 大隅健一郎 裁判官 関根小郷 裁判官 藤林益三 裁判官 岡原昌男 裁判官 小川信雄 裁判官 下田武三 裁判官 岸盛一 裁判官 天野武一 裁判官 坂本吉勝 裁判官 岸上康夫 裁判官 江里口清雄 裁判官 大塚喜一郎 裁判官 高辻正己 裁判官 吉田豊)